みぢかを機能で考える

ISIDエンジニアリング・機能エンジニアが機能で考える開発について紹介します。

TVドラマをわざわざ映画化する価値はあるか?

   f:id:iENG:20180529101842p:plain

昨年10月に映画を映画館で見る価値、家で見る価値についてお話をしました。

映画というコンテンツを「モノ消費」するか「コト消費」するかの違いとではないか、が結論でした。

 

ではここで映画というコンテンツについて考えてみたいと思います。

 

ジャンルの違い、名作・駄作の違い、新旧の違い、技法の違い等、論じるべきポイントはいろいろあると思いますが、一番やっかいなポイントにあえて首をつっこもうと思います。

 

それは首題の通り、「TVドラマ」と「TVドラマの映画化」の違いです。

 

   f:id:iENG:20180529101952p:plain

 

そもそも、TVドラマをなぜ映画化する必要があるのでしょう?

TVドラマだったらTVの中で済ませておけばいいのに。

しかも、娯楽の主体が映画からTVに移りつつある時代でもTVドラマの映画化は行われており、はやり廃りとは関係なく、脈々と続いていたりします。

 

 

大人の事情的には、

 

映画業界:オリジナルの企画を考えるより楽だし客層も見込めるし、何より広告宣伝する必要がないので気軽!

 

TV業界:2時間の特番を作るだけ。別にTVだろうと映画だろうとどっちでもいいが、映画の方が話題になるしお金になるからいいかも。

 

という身も蓋もない事情がありそうですが、私は機能エンジニアです。お金ではなくコンテンツの本質に目を向けて、製作者としての思いと志について素朴に純粋に考えてみたいと思います。

 

その視点で、TVドラマが映画化される要因をいろいろあげてみました。

 

①CMや時間枠といった制限のない自由なドラマ作りをしたい。

  TVは、1話1時間弱という制限、そして何分かおきに話を途切れさせるCMの存在のためにシナリオに制約が生じてしまう。本当に作りたい物語を自由に創作したい。

 

②映画の方が予算をかけられるので、派手なことができる。

  多分、想像だが映画の方が予算をかけられそうなので、そうだと仮定して、役者やCG等の絵作りに金と時間をかけて、思う存分好きな映像を作りたい。

 

③映画という歴史の長いジャンルの中で作品として勝負したい。

映画はTVより昔からあり、数多くの歴史的名画が存在している。その名画たちに並んでも遜色のない名画を創作したい。

 

④大画面で迫力のある映像を楽しんでほしい。

  日常とは違う大画面ときれいな映像と迫力のある音量に囲まれながら、雑音と邪魔のない環境でドラマの世界にじっくりと思う存分浸ってほしい。

 

⑤ドラマファンが集って一緒に楽しめる場を提供したい。

  いつもは1人でもしくは家族で見ているだけだが、映画館での上映となれば、そのドラマのファンが大多数であり、感動をその場にいる人全員で共有できるので、感動がさらに強まることが想定される。ファンへのサービスのため、もしくはそのファンからの口づてで1人でもファンが増えることを願って創作したい。

 

といったところでしょうか。

 

   f:id:iENG:20180529102126p:plain

 

①②③は製作者サイドのクリエイティブな要因、④⑤は視聴者のためを思った要因になります。

いずれも作品に対する愛が無ければできないことです。

かつ④⑤はTVドラマの視聴という日常から、非日常の「コト消費」の機会を作る作業でもあります。これはある意味ファンに対するプレゼントではないでしょうか?

 

「別にTVの特番で十分じゃん」と言わずに、そのドラマのファンであるなら、純粋な思いで素直に映画館に足を運んでみてもいいのではないでしょうか?

 

TVのスイッチをつける、もしくは録画予約する、という単純な行為だけではなく、お金を払って時間を作って映画館に行く、というイベントがそのドラマに対する思いを増幅させて更なる感動を呼び起こすかもしれません。(大人の事情の思う壺かもしれませんが・・・)

 

 

Uberの価値、タクシーの価値

 f:id:iENG:20180508044655p:plain   

機能エンジニアです。

 

しばらくブログ投稿がお留守になっていました。

 

私たちはものづくりに関わるさまざまなお客様に「機能で考える開発」というものを提唱し、ご支援をさせてもらっています。

身近にあるものを題材に「機能で考える」とはどういうことなのか、それをわかりやすくおつたえをするためにこのブログを通しておつたえをさせてもらっています。

 

今回は「機能で考える」上で大事だと思っていること、それを共有させて頂きたいと思います。

 

  f:id:iENG:20180508044834p:plain

ご存知の方も多いと思いますが、タクシー業界を騒然とさせているUberというサービスがあります。

Uberとはどんなものなのか、いろいろなところで説明をされているので、ここで詳細を語ることはしませんが、簡単に言うと

  • タクシーと同様に人を目的地に運ぶサービス
  • ある特定の企業の車がそのサービスを提供するのではない
  • そのサービスを提供できる人や車をITの力を活用しダイナミックにつなげて多様なニーズに応えていく

というものです。

まだ日本では広く馴染みがあるとはいえないかもしれませんが、米国サンフランシスコではUberの利用が殆どになり、タクシー会社はなくなってきているそうです。

 

ドライバー、車、企業といった形にこだわらず、そのサービスを提供するために必要な機能に特化し、IT活用で使いやすさを上げているという点では、「機能で考える」ことに相通じるものがあると思っています。

 

一方で最近あるタクシー会社のCMをみて、機能が提供する「価値」について考えさせられました。

 

注目したのは、制服、制帽を身にまとった典型的日本のタクシードライバーがおばあさんを背負って、石で築かれた階段を一つ一つ登っているシーンです。

 

情景から、近海に浮かぶ小さな島なのか、あるいは山奥の片田舎なのか、急な斜面に住まいがあり、戸口に車をつけるような道路はないことが想像されます。

 

CMではタクシードライバーがそのおばあさんを車に乗せ、目的地へ移動し、到着して料金を頂き、車から降ろすといった一般的なシーンは一切でてきません。

 

しかし、さらに想像力を膨らませると、石段を登っていく前には、こんなやりとりがあったと思われます。

 

  f:id:iENG:20180508045128p:plain

 

「おばあちゃん、どこまでいくの」

「家はこの坂道のずっと上にあるのよ」

「それは大変ですね」

「いつものことよ」

「なら僕がお送りしますよ」

「送るってどうやって…?」

「まあまあ、とにかく降りて」

 

        (タクシードライバーが車を降りたおばあさんをおんぶしようとする…)

 

「えっ…?そんなことしてくれなくてもいいよ」

「いやいやまたうちのタクシーをつかってくれたらそれで十分ですよ(笑)」

 

という会話から、その続きが石段を登るシーンであったに違いありません。

 

であれば、このドライバーはお客様を目的地までお連れするということを「車で」といった手段に限定するのではなく、「安全に」「楽に」「本当にお客様が行きたい目的地まで」という目的を考え、その目的を達成すべく「価値」を提供したといえるのだと思います。

 

さらにお客さんはタクシードライバーの好意に「いいタクシー会社だ」と思い、今度はそのタクシー会社を呼んでくれる可能性がある…タクシー会社にとってもドライバーにとっても提供した価値でさらに価値を生み出す状況になっていくのかもしれないのです。

  f:id:iENG:20180508045317p:plain

 

我々が「機能で考える」ときに、目的は何か、何をしたいのかということを自問自答するようにしていますが、そのときにキーワードになるのが「価値」と考えています。

 

もちろん何が「価値」になるのか、それは生み出されるものを取り巻く状況や、その内容(形やサービス等)を受け取る人によって異なります。過去には全く見向きもさえなかったものが、今はもてはやされることもあります。 

 

何かに取り組むときに、その目的はなにか、そのために必要な機能はなにか、そしてどんな価値を提供できるのか、これらはモノづくりだけでなく、どんな仕事や学業にもいえることではないでしょうか。

 

信号機

 f:id:iENG:20180305044415p:plain 

外に出ると道路のいたるところにあるもの。 今回は「信号機」の機能を考えてみましょう。

 

さて、「信号機」は何のためにあって、どんな働きをするのでしょうか?

車や歩行者の動きを整理する事故を起きにくくする、など、いろいろな「目的」が考えられます。

その目的を達成させる手段が、信号はちょっと変わっていると思うのです。

 

 

信号機は「交差点(あるいは横断歩道)」にあります。すなわち、複数の移動方向が交わるところで事故が発生しないように、歩行者や車などの動きを整理する、という目的があります。(ここでは簡単のために、これ以降は横断歩道も含めて「交差点」と呼ぶことにします。)

 

ただし、「複数の移動方向が交わるところで事故が発生しないように」ということを考えると、立体交差させるのが一番なわけであり、交差点自体が存在しないことが理想です。

道路の立体交差や、歩行者のための歩道橋や地下道などですね。

 

 

しかし、立体交差にはかなりの費用が(道路は広い場所も)必要なので、あらゆるところを立体交差にすることはできません。すなわち、交差点はできてしまうということです。

その「交差点」というものの存在を前提に、「事故が発生しないようにする」ことを目的に考えます。

 

f:id:iENG:20180305044554p:plain

 

さてここで、もう一つの重要なことを考えなくてはなりません。

それは歩行者や車の運転者は、自分の意志で、動きたいように動くものであるということです。すなわち、交差点での動きを歩行者や車の運転者に強いることはできないのです・・・。

もしもこれを強いるという働きを考えるのならば、交差点で歩行者や車をかごのようなものに乗せて運ぶといった手段を考えなければなりません。これはまた、立体交差を作る以上に費用が大変かかることであり、実現性が低いですね。

 

 

そこで、交差点を通行する際のルールを決めて、そのルールに則って通行できるように、「指示を出す」ためのものとして、信号機が存在するということになります。すなわち、信号機の機能は

 

「歩行者や車は交通ルールに則って交差点を通過する」という前提のもとに、「交通ルール上の指示を出す」

 

ことになります。

信号にはそれしかできないのです。

 

 

だから、そもそもの前提である「交通ルールを守る」ということを崩すような歩行者や車の運転者がいると、いくら信号機が頑張っても事故は起きるわけですね。

 

 

当たり前のことを長々と話しているように聞こえるかも知れませんが、「人の行動」と関連するシステムを構築しなければならない時に、この信号機と同じようなことが必ず発生しうるので、「人はどのように行動するか」という前提をどう置くかによって、必要なシステムは全く変わってしまうことになるわけです。

 

かといって、人の行動をすべて事前に想定して、それに対応するシステムを作るということは不可能です。

あるいは完璧なシステムを作ろうとすると人の自由を奪うことになるのかも知れません。

 

f:id:iENG:20180305044821p:plain

 

今、何かと話題になる「自動運転」も、この予測が難しい「人の行動」というものを、どう捉えるかによって、成否が大きく変わってくるものと思います。すなわち、自動車専用道路を走らせることは比較的容易でも、街中を走らせることがはるかに難しいということです。

  

今回はこの辺りで。

 

マウンテンバイクの異音

f:id:iENG:20180131073123p:plain

季節はスノーボードですね! 年末あるスノーリゾートに出かけましたが、幸運にもノートラックのパウダーに遭遇し、いいシーズンのスタートが切れました。

今回は昨年の積み残しのテーマ、MTBです。

 

読者の皆さんには、日頃何らかの形で自転車に乗っている方がいらっしゃると思います。 乗り方、使い方は様々と思います。

 

毎日乗っていても家で、駅前で駐輪しているときに雨ざらしにしているとチェーンやスプロケットが錆びてくるものです。そのまま乗っていると茶色っぽい赤錆が出て、「キコキコ」、「キュルキュル」といった音がしてきます。街中でも多くの人たちが「キコキコ」させながら走行しているところに遭遇します。また変速時、変速後チェーンとスプロケット(車輪の軸にある歯車)から「カラカラ」という音もなじみがあると思います。

 

この音はなぜ発生するのでしょうか?

 

チェーン自体から発生する「キコキコ」という音は、チェーンの内外のプレート間、あるいはピンとローラー、ローラーとプレート間で、それぞれメタルタッチすることによって発生すると考えられます。またそれ以前に潤滑油切れによって、金属が腐食によって酸化物が生成(錆)され、これが介在することも考えられます。金属同士が擦れあうことにより音が発生し、さらに相互の表面を削りあう摩耗が生じます。

チェーンとスプロケットからの音は、シフトレバーと変速装置をつなぐワイヤーの経年使用による伸びによって、シフト位置が微妙にずれることによります。チェーンの適正位置をシフトレバーのラチエット機構で設定できなくなり、チェーンとスプロケットの歯が干渉することによって生じます。

 

 

f:id:iENG:20180131073336p:plain

これらの音は、不必要なメタルタッチや、駆動力の伝達位置の不適正から生じます。MTBの場合動力源は人間(ライダー)です。ライダー→ペダル→クランク→チェーンホイル→チェーン→スプロケット→ハブ(*)→スポーク→リム→タイヤ→路面と伝達されます。
(*車輪の中心部にあり、スポークが集中する部分、またはその構造のことです。ネットワークの「ハブ」、空港の「ハブ」の語源はここにあります…ご参考まで)

f:id:iENG:20180131073421p:plain

(クランク)

 

 

f:id:iENG:20180131073448p:plain

(スプロケット)

 

部品で羅列してしまいましたが、この一連のシステムは、動力源のエネルギーを路面に駆動力として伝え、MTBを進行方向へ推進していくための運動エネルギーに変換するのが目的です。

音や振動は、このシステムにおいては駆動力を伝えるにはそもそも必要のないものであり、エネルギー伝達におけるロスと考える事ができます。伝達の過程にはエネルギー変換を含むさまざまな「機能」があり下図の様な関係になると思います。

f:id:iENG:20180131073531p:plain

上記の各ブロックの黄色の箇所がロスに相当する部分になります。

ざっと書き出しただけですが、チェーン自体の摩擦、チェーンとスプロケットの駆動力伝達でロスが生じることになります。

チェーンでは、金属同士(メタルタッチ)が削りあう摩耗や、さらにその時に振動、音が、ロスエネルギーとなって放出されることになります。ロスの大きさは別としても、さまざまなロスにより駆動力を奪われながら走行していることがおわかりと思います。 

これらのロスを低減するために、潤滑油により金属間に油の皮膜を形成し、金属と金属を直接接触させないようにすることを行っています。前述のチェーンとスプロケットの「カラカラ」音はシフトレバー部にあるワイヤーの長さ調整機構により、解消されているのです。

 

f:id:iENG:20180131073618p:plain

 

このようにMTB(機械)から発生する音は駆動力を伝達するためのエネルギーのロスであることはお分かりかと思いますが、それらは前述のように本来必要としないものであるので、副作用が起こっている可能性があります。具体的には部品の磨耗なのですが、その副作用は、状況によっては故障の予兆でもあるといえます。

 

私は、適正にそれぞれのコンポーネントが作動しているときの音がどういうものかを認識していくことが重要と思うようになりました。

f:id:iENG:20180131073640p:plain

 

ダウンヒルバイクの走行中はチェーンのフレームにあたる音(最近はリア変速機のチェーンテンションの取り方に工夫が凝らされバタつきが抑えられているものもありますが)、サスペンションの作動音、制動時のキャリパー、パッドの音・・・など、さまざまなものがあります。

 

異常が生じてくると、振動、熱などの作動状態に変化が生じ、その結果、音が発生するのです。先シーズン、フロントブレーキのキャリパー付近から「カタカタ」音がするので確認すると、キャリパーの取り付けボルトが緩んでいました。実は、前日油圧ブレーキのオイルの交換をした際に、キャリパーの位置調整をしたのですが、最後に取り付けボルトのまし締めをし忘れていました。これも「カタカタ」音に気が付かなければ、事故になっていたかもしれません。

 

楽しいMTBライフを継続するためにも、日ごろからちょっとしたモノの「機能」に注目することが重要と感じています。

 

 

 

 

 

 

 

新年メッセージ

f:id:iENG:20180117081935p:plain

 

あけましておめでとうございます。機能エンジニアです。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

既に松の内を過ぎておりますが、2018年最初ブログ投稿になりますので、一言ご挨拶させて頂きました。

 

皆様、新しい年をお迎えになり、心機一転、仕事に、学業に、プライベートにいろいろな目標をお持ちであろうと思います。

私は毎年、某八幡宮に初詣をしておりますが、そこでおみくじを引いてその内容を自分の目標の中に取り入れることをやっています。今年は仕事運に「遠くて高い目標を掲げよ」という内容があり少々気に入っています。

 

この時期、個人のみならず、企業や行政、団体のトップの方が仕事始めの日に新年にあたってのメッセージを出されていると思います。最近は、マスメディアを通してオープンにしているところも多いので、その組織に所属していなくても、見聞きすることができるようになりましたね。

 

その組織の性格によって、トップの方のメッセージはいろいろな呼び方をしているようです。

年頭メッセージ、年頭訓示、年頭所感、年頭挨拶、年頭あいさつ、年頭の辞、などなど…。

その呼び方そのものの意味は若干異なるようですが、その内容を拝見すると、大まかには以下のようになるように思います。

 

  1. 新年恒例の挨拶
    「あけましておめでとうございます」
    まずはこれをいわないと年頭挨拶であることがわかりませんね。

  2. 昨年の振り返り
    昨年の自組織を取り巻く環境認識、我々自体の成果。
    目標達成できればそれに越したことはありませんが、できない場合でもその過程で得られた成果など、新年にふさわしいポジティブな表現ではないでしょうか。

  3. 組織の目標
    会計的なものは、必ず毎年予算と実績があるとは思いますが、組織が達成しようとするものは単年度で実現できるとは限らず、その場合、中長期的な目標がありますよね。
    今一度思い起こす意味でも、それに触れた上で前述の昨年の振り返りをしたり、今年の目標について話をしたりするようです。

  4. 今年の目標
    必ずしも一つではなく、幾つかあるかもしれません。また具体的な目標というより、スローガン的なものかもしれませんね。具体的なものはこのトップのメッセージを受けて設定される場合もあるでしょう。

  5. 社員全員、家族の今年一年の健康、活躍を願って、締めの言葉
    組織の力は各個人の努力あってこそですが、それを支える心身とも健康であること、そういったことに言及して締める。昔はとにかく目標達成に向けて頑張ろう!だけだったかもしれませんが、「働き方改革」なるものが叫ばれるこのご時勢では、ここに触れずにはおられないようですね。

f:id:iENG:20180117082329p:plain

こうしてみると新年のメッセージというものは、大きく以下の3つのパートに分かれています。

  • 今一度自分達がどこにいるのか、なにがゴールなのかを再認識する (上記 2、3)
  • ゴールに向かって今年はどこまで登ろうというのか、明確にする (上記4)
  • ゴールに登るためには社員一人一人が機能することが大事であることを伝える (上記 5)

 

それぞれは特別に新年のメッセージ特有のものではありません。

しかし、メッセージを受け取る個人個人が新年を迎え新たな気持ちになっている時に、冒頭の新年の挨拶に始まり、上記3つを伝えることにより、組織のゴールから個人の果たすべき役割について考える状況を提供する、そういう機能が新年のメッセージにはあるように思います。

f:id:iENG:20180117082455p:plain

 

機能エンジニアこと、私も「機能で考える開発」の定着に向けて今年も微力ながら頑張ってまいります。ブログを始めて十ヶ月余りとなりますが、今年はもっといろいろな発信ができたらと思っています。

本年もこの「みぢかを機能で考える」ブログを宜しくお願いいたします!

 

ドア

f:id:iENG:20171129081513p:plain

    人が住むところにはどこにでもある、みぢかの中でも特に身近なもの。 今回は「ドア」の機能を考えてみましょう。 開き扉、引き戸などいろいろな形態がありますが、それらを総称してここでは「ドア」と呼ぶことにします。

 

さて、「ドアの機能」を考えてみようとすると、ドアには必ず2つの状態があることに気づきます:

1)開いた状態

2)閉じた状態

です。

 

    そうです。ドアは「状態によって全く異なる機能を持つ」という特徴があるのです。

1)開いた状態では、人(モノ)を通す

2)閉じた状態では、人(モノ)を通さない

これらの両方を兼ね備えて初めて「ドア」と言えます。

 

    これらの機能には「どのくらい」という水準(レベル)を考えることができます。そしてそのレベルは、ドアに対する要求によって変わります。

 

    例えば、普通の建物のドアなら、1)の機能のレベルは、「その地方に住む人が丁度通れる」というレベルの開口部で良いということになります。日本の古い建物のドア(戸)は小さいものが多いですが、これは昔の日本人の背が低かったからですね。これに対して、西欧の建物のドアは非常に大きいものが多いです。これは比較的西欧人の背が高かったということもありますが、それ以上に、建物やドアに「荘厳さ」を求め、それを大きさで表現した、ということもありそうです。

    そもそも、西欧の建物は天井がとても高いですよね。逆に日本の茶室の入り口のドア(戸)は歩いては入れないほど低いです。これは「茶の湯」の作法が「必要最小限の空間」を追求したために、「躙って(にじって)入る」という入り方で十分である、とか、頭を下げて地位や立場をリセットし一人の人間として入って欲しい、という要求から来ているといわれています。

 

    2)の機能のレベルは、普通の建物のドアでも「人」基準でない場合が多いですね。例えば玄関のドアなら「雨やほこりが入らない」という要求があるので、「水や細かい塵を通さない、気密性」が必要になります。逆に門の扉などは、気密性は必要なく「人が入れない」という要求さえ満たせばいいので、格子状の門もあります。

 

 

       f:id:iENG:20171129081801p:plain

 

    ではここで、2)の「閉じた状態ではモノを通さない」という機能の「水や細かい塵を通さない」レベルを実現するための手段を考えてみましょう。

 

    よくあるのが「パッキン」あるいは「シール材」を用いる、というものです。ただし、これがすべてではありません。

 

    例えば、ミクロン単位の加工技術があって、ドア枠とドアに「テーパー(斜面)」をつければ、押し付けるだけで気密性が確保できます。

 

    逆に、「パッキン」あるいは「シール材」を用いても、元のすき間があまりに大きければ、気密性を確保するのが難しいでしょう。・・・ドア開口部の外周の半分の面積を占めるようなパッキンを想像してみてください。パッキン自体にも強度を持たせないと気密性が保てず、その設計は苦労するでしょう。

          f:id:iENG:20171129081943p:plain

 

    このように考えてゆくと、ものを設計する際には基本機能を実現する「骨格」となる部分とニーズに応じて付加価値を加える「付加的」な部分とがある、ということに思い当ります。上の例では、ドア本体とそれを開閉する機構部分が「骨格」、パッキンは「付加的」であるということになります。

    ドアにも「非常扉」「防火扉」といったものがあるように、その目的により、基本機能や付加機能に要求されるものが異なってくることはいうまでもありませんが、何らかの製品を設計する際には、構想段階でこの「骨格」をしっかりと決めて、基本機能を確立させた上で、それに付加的なものを加えることでモノへの要求をきちんと満たす、そういった全体俯瞰的な視点と部分最適の視点のバランスを保っていくことが重要であるといえそうです。

 

 

 

映画をどこで見る?~映画館で見る価値、家で見る価値

f:id:iENG:20171018065431p:plain

先日映画のディレクターズカットや映像特典についてお話ししましたが、さて、皆さんは映画をどこで見ますか?

もともと映画は映画館で見るものでした。しかし今はいろいろなメディアの発達により、家、あるいは移動中の車や電車の中など、いろいろな選択肢があります。

ここでは話を簡単にするために、映画館と、それ以外の代表格として家の二択に絞って話を進めたいと思います。

 

 

さて、映画館で見る場合、我々は映画館にどのような機能を求めているのでしょうか。

例えば

  • 巨大な画面、大音量で別世界に包まれたい。
  • 周囲の観客との一体感を味わいたい。
  • 始まる前のドキドキ感と終わって帰る時の寂寥(せきりょう)感を堪能したい。

・・・等、要するに非日常のイベントとして楽しみたい、ということでしょう。

 

一方、家で見る場合、そこに求める機能は何でしょうか?

  • 外出の準備をせず気軽に映画を見たい。
  • いつでも休憩したり中断したり、マイペースに楽しみたい。
  • 他人の反応を気にせず、自分だけで落ち着いて映画に集中したい。

・・・等、要するに日常の延長、生活の一部として楽しみたい、ということでしょう。

 

ちなみに私、機能エンジニアとしては、アクション系、SFX系の派手な映画は、映画館それもIMAXで、ドラマ重視の映画は家で見ると決めています。 多分そういう方は多いのではないでしょうか。もちろん映画館で見た映画もあとで特典映像見たさにブルーレイを買ったりしますが。

 

   f:id:iENG:20171018065655p:plain

 

さて、ここでふと思ったことなのですが、上記の映画館の場合と家の場合の特長は、それぞれ「コト消費」と「モノ消費」という言葉で表現できるのではないでしょうか。

 

「コト消費」「モノ消費」の定義として、ここで、経済産業省が公表している『平成27年度地域経済産業活性化対策調査(地域の魅力的な空間と機能づくりに関する調査)報告書』からモノ消費とコト消費についての説明を引用します。

【モノ消費】

 個別の製品やサービスの持つ機能的価値を消費すること。

【コト消費】

 製品を購入して使用したり、単品の機能的なサービスを享受するのみでなく、個別の事象が連なった総体である「一連の体験」を対象とした消費活動のこと。

 

家ではコンテンツ(映画)をブルーレイもしくはDVDという製品に変えて消費(観賞)し、映画館ではコンテンツを観賞するだけではなく全体の雰囲気を堪能する。まさにモノ消費とコト消費ですね。

 

「モノ消費」から「コト消費」へ、という流れが昨今言われていますが、さて、映画はどうでしょう?

 

    f:id:iENG:20171018065754p:plain

映画の場合は逆の流れになっていないでしょうか。

 

たしかに最近シネマコンプレックス、通称シネコンが増えてきて、スクリーン数や映画館入場者数は増えつつありますが、「増えつつある」程度です。

日本映画産業統計によれば、1996年の1.2億人を底に2016年には1.8億人まで増えてきていますが、1958年のピーク時が11.3億人だったことを考えればまったく比べ物になりません。まあ当時はテレビも一般的ではないし他に娯楽があまりなかったので確かに比べ物にならないのですが。

 

1958年を特別扱いにするとしても、娯楽の代名詞であった映画からその座をテレビが奪った1970年代以降ほぼ入場者数2億人弱で推移している現状では、とても「モノ消費」から「コト消費」に移りつつある・・・とは言えません。

 

逆に特典映像で付加価値をつけたブルーレイやDVD、そして価格が下がりつつある大画面テレビにその座を奪われつつあります。

 

  f:id:iENG:20171018065935p:plain

 

 

また最近は映画館での上映終了後、ブルーレイやDVDへの製品化までの期間は短くなる一方で、ついこの間封切りされたと思ったらもうブルーレイが売られている!という状況になっています。

海外の映画には日本での上映無しに製品化されるものもあります。しかも特典映像がついているのですから、映画館で見て「コト」を楽しむべき映画に付加価値がついて「モノ」になっています。この状況は「コト消費」から「モノ消費」に流れているといってもいいでしょう。

 

でも、本当に「コト」から「モノ」に流れているのでしょうか?「コト」としての映画館は廃れてゆくだけなのでしょうか?

 

それは映画館入場者数が増えつつある現状を見れば間違いであり、シネコン化やIMAX、IMAX3D、4DX等のコトの付加価値の増加により入場者数は更に増えていくと思われます。

 

ということは単純に「モノ」から「コト」へ、もしくは「コト」から「モノ」へという2つの流れだけでは計れないものが映画にはあると私は考えています。

「モノ」でも「コト」でもない、「映画というコンテンツ」というものが中心にあり、その「コンテンツ」の楽しみ方が、見る本人のその映画に対する思い・考え方によって、「モノ」という手段を選ぶか、「コト」という手段を選ぶか、という違いになっているのだと思います。

 

つまり最初の質問、「映画をどこで見ますか?」は、言い換えれば「その映画をコトで楽しみますか?モノで楽しみますか?」になるということです。

 

  f:id:iENG:20171018070103p:plain

 

結局は「モノ」だろうと「コト」だろうと、その中心にある「コンテンツ=本質」が重要であり、「モノ」も「コト」も本質に対する付加価値でしかなく、本質の価値が「モノ」と「コト」の価値を決めるのです。

それを見失い「モノ消費」だの「コト消費」だのという一時のブームのような言葉に振り回されると、いつか痛い目に会いそうな気がします。機能エンジニアとしては「本質」の重要性は絶対に忘れたくない・・・と映画館の話をしながら思ってしまいました。